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「哲学への権利—-国際哲学コレージュの軌跡」を観に筑波大学へ

素人の乱12号店での上映会にいけなかったので、こちらへ。
最近読んだ『権力と抵抗 フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール』の著者、佐藤嘉幸さんもゲストで呼ばれているので気になるところ。この本の内容は、構造主義、ポスト構造主義における各思想家における主体形成をめぐる概念の歴史的発展を辿りつつ、「主体が主体であるために依存する基本的な何か(ラカン)」と、それによって内面化される権力とそれへの抵抗を読み解いていくものだ。古典的なカントの形而上学的な主体(経験的、超越論的的二重体)からフーコーによるニーチェ理解によるその批判を糸口として、外界を即時的に象徴して認識する単数的な主体観から、複数のシステムが対立し、絡み合い、占め合う多様で闘争的な主体観を描き出すことを目論んでいる。一読してみて、かなり重みを持って紹介されているラカンがサブタイトルに入っていないのが少し不思議だった。感想としては下記リンク先が突っ込みも細かくてなかなか面白い。








佐藤嘉幸『権力と抵抗』を読んで その1 土佐巌人
http://uicp.blog123.fc2.com/blog-entry-72.html
>また、ある要因から、様々な概念を関連付ける際に困難が生じているのではないかも思われた。その要因とは、p.10で断言されているが、「実際、権力のメカニズムはシニフィアンのそれとは何ぬの関係もない。」という態度である。シニフィアンの作用は世界を分節化するものであり、すなわち言語の働きである。こうした、中立的と思われる言語に既に政治性が潜んでいる、というような研究は他の研究領野の方(たとえばフェミニズムとか)に任せて、本書ではもっと問題の領域設定を狭め、緻密にやる、というような目論見を、この断言に込めたのかとも思われた。しかし、権力が内面化され、主体が自らの思考様式や世界観の自明性を信じて、疑わずにいるという状況は、やはりシニフィアンの作用と切っても切れないものがあるのではないだろうか。思考の様式や世界観はシニフィアンの賜物なのだから。
















「哲学への権利—-国際哲学コレージュの軌跡」
1983年、ジャック・デリダらが脱構築の論理をもとにパリに創設した半官半民の独創的な研究教育機関「国際哲学コレージュ」をめぐる初のドキュメンタリー映画『哲学への権利—-国際哲学コレージュの軌跡』(2009年)の上映情報
http://rightphilo.blog112.fc2.com/
2月4日(木)
上映=17:00-18:35/討論=18:45-20:00
筑波大学 総合研究棟A 107教室
地図:http://www.tsukuba.ac.jp/access/tsukuba_access.html
討論「新自由主義の競争原理/人文学の無償性」
ゲスト:佐藤嘉幸(筑波大学)
コメンテーター:トマ・ブリッソン(筑波大学)
新自由主義が促進する競争の原理は、卓越性や効率性をめぐる大学の改革といかなる関係にあるのか?人文学的な知の無償性の観点から、資本主義とアカデミズムの現状を問う。
主催:筑波大学現代語・現代文化フォーラム
http://www.modernlc.tsukuba.ac.jp/index.shtml



RIP Salinger

  • Intellipunk
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  • By intellipunk / Jan 29, 2010 11:37 pm

タイの刑務所へ本を送ろう!

タイ刑務所に本を.jpg

●タイの刑務所へ本を送ろう!

タ イのバンクワン刑務所には、邦人の方が9人います。多くの方が10年以上も刑務所の中にいます。彼らは、ドラッグを所持していて逮捕されたり、騙されて逮 捕されてしまいました。タイではドラッグの刑が非常に重く、終身刑や死刑を受ける人も多いです。彼らはいつ出られるか、はっきりとはわかっていません。そ んな彼らの楽しみは、日本語の本を読むことです。できたら、いらなくなった本を頂けるとありがたいです。まとめて、タイの刑務所に送りたいと思っていま す。手紙も、もらえるとうれしいです。どうぞ、ご協力よろしくお願いします。

▼本を集めてくれているお店

イレギュラー・リズム・アサイラム
160-0022 東京都新宿区新宿1-30-12-302 
http://a.sanpal.co.jp/irregular/

素人の乱 12号店
166-0002 東京都杉並区高円寺北3丁目8-12 フデノビル2F 
http://keita.trio4.nobody.jp/shop/12/index.html

▼直接、タイに送る場合。郵便書留でお願いします。
「MR HANAWA MAKOTO」
Bangkwang Central Prison.
117 Nonthaburi Road,
Nonthaburi Bangkok 11000, Thailand.
TEL 02-526-0896               

▼東京以外から本を送っていただける方メールください。

志賀直輝(タイの刑務所長期滞在者サポート)
osasimiichiban(at)gmail.com

キャンペーンの成功を祈る。

一休和尚と髑髏切り抜き.jpg

めでたくもあり、めでたくもなし


  • HarpoBucho
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  • By harpobucho / Jan 28, 2010 10:09 pm

それがちょっとの搾取なら笑い飛ばせるさ




















20年たってもインパクトを受け続けてますね。
高円寺のサウンドデモで「でも・デモ・DEMO」が流れたときの歓喜!
自分の踊りを踊れ!
フジヤマ フジヤマの看板の言葉は絶対に忘れない。
http://fujiyama.press.ne.jp/top.htm


  • Intellipunk
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  • By intellipunk / Jan 27, 2010 10:48 pm

1月30日 路上パーティ!!! in 天王寺公園エントランス

大阪で面白い動き。
気分は「ええじゃないか」?

関西方面の方は歌って踊ってきてください~

路上パーティ.jpg

1月30日 路上パーティ!!! in 天王寺公園エントランス

1月30日(土)14時から、天王寺公園入口前広場で小さいライブやります!ライブの後は、リヤカー式の家庭サイズ・サウンドデモやります!天王寺公園を16時に出発して、難波や心斎橋を回りますー!

デモの趣旨は特にありません。なんでもええです!好きに集まって、みんなで遊びましょー!
ライブ・カラオケ飛び入り大歓迎!!!


  • HarpoBucho
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  • By harpobucho / Jan 27, 2010 1:03 am

バンクシーの映画



2010春、公開予定だって。楽しみ。


  • HarpoBucho
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  • By harpobucho / Jan 22, 2010 1:45 am

続・存在の耐えやすい軽さ

ある深さを持つ人間にとって人生に堪えうるには一般には一つの可能性しか存しない。即ちある程度の浅薄さということである― ゲオルグ・ジンメル

さすがジンメル先生、社会学なんて奇特な学問を思考した人間だけあって、社会のことがよくわかってますな。「もののあわれ」を知っているというか、人の道に通じているというか。デュルケムやウェーバーの影に隠れがちだけど、社会学オリジネーターのなかでボクは彼の考えたことが一番好き。なんて元社会学徒として一応言ってみたが、実はジンメルを引用でしか読んだことがない。冒頭の言葉も『現代思想』で連載していた酒井隆史「通天閣」(単行本化に期待!)からのエピグラフ泥棒。

なぜに大阪の話にジンメルなのか? 大阪の作家、織田作之助に川島雄三が宛てた書簡に引用されていたのがジンメルのこの言葉だった。「戦中ってなんか空気重いよねー、こんなときってあえて軽さだよねー」と二人は意気投合して、あの有名(?)な「日本軽佻派」が結成されたという。この二人の天才を繋げたのがジンメルだっていうのがオシャレ関係ないい話(森繁や山茶花に繋げることだってできる)。

ジンメルの関係についての考察が面白いのは「虚言」や「秘密」に社会形成における積極的な意味を与えていた点だろう。簡単にいってしまえば、嘘ってのは方便だし、秘密ってのは関係に奥行きを生じさせるってことなのだが、嘘も秘密も一切ない関係ってのを考えてみると確かに恐ろしい。そんな完全に溶け合ってしまうような関係であるならば他人である必要なんかないわけだし。

攻めの「嘘」と守りの「秘密」を駆使し、人は伝達される情報を極力、自分のコントロール化に置こうとし、(特に職場で!)他者との適切な距離感を保とうとするわけだが、実はこんな恐ろしい落とし穴があることをジンメルは指摘している。

人間の全交流は、より明瞭でない微妙な形式において、つまり断片的な萌芽を手がかりとして、あるいは暗黙のうちに、各人が他者についてその他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを知っているということにもとづいている。しばしばその多くのことは、それが他の者によって知られるということをその本人が知れば、本人には都合が悪いことなのである。このことは、個人的な意味においては無配慮とみなされるかもしれないが、しかし社会的な意味においては、生きいきとした交流が存続するための条件として必要である。

ジンメル『社会学』第5章

今度は管野仁『ジンメル・つながりの哲学』(NHKブックス)からの孫引きではあるが、プロがセレクトした文章を読むのは無駄がなくてよい。とても深い言葉だが、簡単に言ってしまえばこっちが伝えたい以上についうっかり情報は伝わってしまうということだ。もう一発、ジンメル『社会学』第5章から。

心理学的に敏感な耳をもつ者には、人間は幾度となく自己の最も秘められた思考や性質を漏らす。

だんだんと新しい職場に馴染んできて一番ボクが危惧しているのは、そろそろいろいろと漏れているんじゃないかということだ。まあ、この漏れが交流を活性化するらしいので心配はしないが安心もできない。存在を耐えがたくするような軽率な言動は慎みたいと軽率ながら思う。

オダサク.jpg
オダサクの死により日本軽佻派、解散。


  • HarpoBucho
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  • By harpobucho / Jan 20, 2010 10:53 pm

グラフィティ/ストリートアートはこんな今、どこに向かおうとしているのだろうか?

もばいるついったーが落ちてるんでブツブツと記す




荏開津広さんのグラフィティ/ストリートアートの話を北仲スクールって新型カルチャースクールで聞いてきた。

http://kitanaka-school.net/event/2010/01/post-20.html


エガさんは口下手でスーパーシャイで、親近感があり、おまけに受け答えが誠実。


はじめに7、80年代の欧米に限定して話すことを断る。
その中でポストグラフィティとして80年代最初期にギャラリーやミュージアムや額縁の中にグラフィティが回収される例を、Documenta 7のレディ・ピンク(http://www.pinksmith.com/Site%203/BIO%20PAGE.html)とジェニー・ホルツァーや色々な当時のアートカタログをスライドで見せてくれる。クリス・バーデンのプロモ1976(http://www.medienkunstnetz.de/works/chris-burden-promo/)やゴードン・マッタ・クラークのアートからのアプローチ。序文にノーマン・メイラーのK1インタビュー「名前を残すことがグラフィティなのだ」
次にグラフィティ全盛期の動くニューヨークの地下鉄の映像、地下でなく外に出て鉄橋の上を、空をバックに極彩色カラフルなグラフィティだらけな車両が走る走る走る、相当な量のラッピング電車は日本じゃ有り得ない。
ここで、ポストグラフィティはヴィジュアルだけ、そこから落ちたモノ、動く地下鉄ムーブマント、ヴァンタリズム、描く身体性などなど。
スウェーデンの批評家アンドレアス・ベルク(この人?http://www.kilroy.nu/kilroy10/berg.html)、中産階級化されるスウェーデンでヴァンタリズムとスプレー缶をパクる根源的な性質、所有せざる者たちの文化。

質問は話題の外へ向き、エガさんはけして代理表象しないで言葉を途切れさせる。かみ合わないのは、自分が言えないことは言わないというエチカなのだとわかる。

エンリコ大山さんのまくし立てた現状認識と異議にも頷き躓く。

最後の方で自称オタクの人の質問、オタクカルチャーとヤンキー・ヒップホップカルチャーの学校での分離とそのメビウスの輪のような接続はあるか?
僕もこんな(グラフィティ資料)とか集めてオタクだし学校は困った環境で耐えるしかないし、社会生活難しいのなんとかやっているし、でもリア充なんて居るのか…ほんとに誠実な呟きだった

最後は懺悔めいたバブルの人は落ちないとダメだ、転落してから…



そんなこんなでエガさんは一片もおいらをガッカリさせなかった大人だった。あんなふうになりたい




ニュース!!!
荏開津広さんが浜田淳さんと小説『ヤーディ』を出しました!マスト!

http://www.rockers-island.com/shop/item/detail.asp?ID=GDS0367

http://www.overheat.com/riddim/issues/no/323/ring_ring_ring_from_no323/




  • Intellipunk
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  • By intellipunk / Jan 20, 2010 12:57 pm

存在の耐えやすい軽さ(3×3=9)

森繁映画を観ていると山茶花究(さざんかきゅう)という俳優が気になってくる。こんなときはウィキペディアに解説してもらおう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%8C%B6%E8%8A%B1%E7%A9%B6

左翼思想に傾倒し、特高にも目をつけられ、尾行を巻いているうちに浅草のレビュー小屋に潜り込んで、そのまま文芸部員としてレビューの台本を書いたり、また歌手として舞台で歌ったりして生計を立てるようになる。

1932年11月にカジノ・フォーリーで歌手としてデビュー。1933年1月に浅草オペラ館の俳優となる。エノケン劇団、万盛座のグラン・テッカールと転々としたのち大阪に戻り、いくつかの舞台に立つが、芽が出ずに俳優を辞めて朝鮮に行き、実業につく。1937年8月、東宝のロッパ一座に入り役者に復帰。このとき一緒に入ってきた森繁久彌と出会う。ここで芸名を加川久と名乗る。

1939年3月、当時絶大な人気を得ていた「あきれたぼういず」がリーダーの川田義雄を残して、坊屋三郎、益田喜頓、芝利英が吉本興業から松竹系の新興キネマ演芸部に引き抜かれ、その川田の代役として選ばれ、山茶花究の名で第2次あきれたぼういずを結成する。1943年に解散、森川信の新青年座に副座長で入り、1944年に山茶花究劇団を組織して巡業するが、戦況の悪化により解散する。その後、水の江滝子主催の劇団たんぽぽに加わり、終戦を迎える。

敗戦直後の1945年10月に再び劇団を立ち上げるが、すぐに解散。1946年に坊屋三郎、益田喜頓と「あきれたぼういず」を再結成。1952年に解散後は、喜劇役者として舞台や映画で活躍。ラジオのジャズ番組の司会などをしていたところ、森繁久彌から誘われて映画『夫婦善哉』にふちなし眼鏡をかけたインテリの番頭役で出演、冷酷で神経質なキャラクターを嫌味たっぷりに演じ、性格俳優として飛躍。


やはり一番印象に残っているのは『喜劇 とんかつ一代』のキャラクターだ。アムステルダムの世界大会で優勝したという職人らしいが、何の職人かは中盤まで明かされない。只者じゃない雰囲気から、カンナビスカップの優勝者?なんて邪推してしまうのだが、実は普段は冷静、だが怒ると豚と人間の区別が付かなくなるというおそろしい屠殺職人という設定。しかも病的な清潔マニアという今じゃ絶対に映画に出てこれない最高のキャラを演じているのだ。

前回のブログで扱った『森繁自伝』に山茶花究のことが書かれていたので引用しておこう。古川緑波親父の大ボンが森繁、中ボンが山茶花、小ボンが三木のり平という腐れ縁のアフェニティーグループを形成していたようだ。

ここで親しき悪友山茶花究のことについて少し触れておきたい。すでに脇役として押しも押されもせぬ手がたい役者として映画に活躍し、また私の芝居には欠かせぬ女房役をつとめてくれる彼は、私の友達のなかでも風変わりに属する最たる奴で、友達づき合いは悪くないが、限界以上に親しくなろうとせぬ男である。わずかに私と三木のり平くらいが一番親しくしているぐらい。彼は友達ほど<面倒くさい>ものはないという。そんな孤独のせいか、熱帯魚にこったり、模型飛行機にこったり、一人で楽しむことに妙にこる男で、それも自分のピークまでくると、さッと全部人にくれてやって、また新しい道楽をさがすのである。ただ驚くのは、むさぼるように本を読むことである。

飽くなき探究心とピークに達した後の執着のなさ、つまりはその「軽さ」に憧れるわけだが、なかなかこれは真似をすることができない。ボクは、欲張りな性質なのでいろいろなものに興味を持つのだが、どれもピークに達する気配がなく、いや、ボクの場合は高みに昇るというよりは、地下深く掘っていく方向に進むのだが、どの分野においても底が見える気配がしないのだ。同時進行に興味の趣くまま掘っていくと、深い処で異質だと思っていたものが繋がってしまったりして、どんどん欲望は増幅されるばかり。捨聖、一遍上人のようには生きられないにしても、なるべく身軽に生きたいもんである。

「軽さ」への憧れによる物事に執着したくない、というボクの執着心の重さはいかほどか。

喜劇とんかつ一代.jpg
駄々っ子森繁の重力に抗する山茶花究(左)と淡島千景(右)


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  • By harpobucho / Jan 17, 2010 11:16 am

喜劇的人間

2009年最後の日記に「ハーポ部長の生活と意見」という仰々しいタイトルをつけたのは、チャタレイ裁判で有名(有罪)な文芸評論家、伊藤整氏の次の言葉を見つけたからだった。これをサゲにもってきて2009年をきれいに締めくくるつもりだったのだが、残念ながら失敗に終わった。きっとこれは10年代に残されたボクの課題なのだろう。

「二重の論理をやめて、一重の論理で生きる時がナマの現実生活である。だから強い生命意識に駆られる人間たちは、舞台の約束をそのまま現実にしようとして、人を殺したり、自ら死んだりしなければならなくなる。革命する芸術家と自殺する芸術家は二重の存在である芸人の意識をいつの間には忘れて、そのまま舞台で一重のナマの生活にしようとするのです。」(『伊藤整氏の生活と意見』)

リンギスの「社会は、たた単に暴力的な者を社会病質とみなすのではなく、―暴力であっても、警察やプロ・ボクサーにおいて見られるように完全に社会化されることもある―、二重、三重の人生を送る者を社会病質とみなすのだ」という言葉に照らしあわせてみると、芸人であることもなかなか生きづらそうだ。

う~ん、それは困る。

ここでいう芸人とはもちろんテレビや劇場で笑いをとることを仕事にしている人間のことではない。自分という人間を戯画化できる人間のことである。自己戯画化とは自己卑小化ともいえる。『伊藤整氏の生活と意見』のなかで著者の伊藤整氏はこんな処方箋を出している。

「自己卑小化によって人間は、自分を悲劇的人間として美化することも、深刻になることもない。これは自己救済の方法として有効である。」

ふー、助かった。

2010年の映画始めは高架下の昭和な映画館、銀座シネパトスでの森繁特集上映。大好物の『喜劇 とんかつ一代』(2度目の鑑賞)と森繁芸能生活40周年記念の新旧オールスターキャストの予備校もの『喜劇 百点満点』。大満足して森繁気分で銀ぶら。だがとんかつは高すぎて食えず。

空気を読んで上手に笑いをとっていくテレビ的な芸人には全く憧れないが、銀幕の軽快な喜劇人には憧れる。 そんなわけで読書始めは『森繁自伝』。満州でソ連兵に春画を売って食いつないだり、撮影所での猥談の評判でいい役をゲットしたり、と森繁の自己戯画芸が輝る。

森繁自伝.jpg


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  • By harpobucho / Jan 10, 2010 8:10 pm

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