ジェームズ・C・スコット

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ZomiA : The Art of Not Being Governed, an Anarchist History of Upland South East Asia

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ジプシーは偉大だと思う。文字を持たないから歴史を持たない。自分の民族から一人の英雄も哲学者も出さないことを誇る。英雄は人殺しだというんだ。思想家は不和を持ち込むというんだ。ジプシーは武器をとって戦ったことは一度もない。ただ逃げる。
(平岡正明『河内音頭・ゆれる(週刊本)』)


「彼等を小さく、端へ追いやることに加担してきた私たち自身の歴史に向き合うのは、ちょっとした勇気がいる。山の民という鏡の中に、国家や資本主義に依存する私たちの本当の姿を覗き見る覚悟を持てるかどうかが、今、問われている。」
ジェームズ・C・スコット『ゾミア』訳者あとがき


 フーコーは『アンチ・オイディプス』の英語版序文でこの本を「倫理の書」と評し、「非ファシズム生活への手引き」と呼んでいる。ここでフーコーが言うファシズムとは、あのナチスや日帝に代表されるような歴史的ファシズムのみならず、「われわれの全員の中にある、われわれの頭の中に、われわれの日常行動のなかにあるファシズム、われわれをして権力を愛せしめ、われわれを支配し搾取するその大本を、われわれに欲望せしめるファシズム」である。
 強大で苛烈な国家と資本の暴力がほしいがままに人々を蹂躙し、かつ、人々が望んでその力の一部となり、敵対する人々を傷つけている今、この「倫理の書」が増々必要とされていることは間違いないだろう。そしてドゥルーズとガタリたちが「ミクロファシズム」と呼んだこのわれわれの中のファシズムの萌芽から「原国家」がどのように生まれ育ち、人々は囲い込まれ、ファシズムの一部として機能してきたのかを歴史的に問いかけることの意義もまた大きくなっていると言えるだろう。
 そして、本書『ゾミア』はこの文脈において、「反ファシズム」「反国家」の歴史として読むことが可能である。従来、文明的に劣った存在とされ、発展の途上か過去の停滞と考えられていた原始的な民族は自ら文字を習わず、辺鄙な場所に住み続け、税の対象となる作物を放棄し続けてきた。この態度は決して野蛮でも未開でもなく、ひとつの倫理に基づいて選択され、国家(権力の集中とその暴走)を払い除けてきたのだ。だからこそ、あえて言おう、このゾミアもまた「倫理の書」なのだと。彼らの選択は国家の囲い込み(奴隷化や収奪の対象化)を避けるための有力な選択だったのだ。文字や歴史や物語を敢えて忌避してきた人々の戦略の歴史は、文字や歴史に残されることなく消え去っていった。巨大なオベリスクや先勝記念碑、神々の石像やピラミッドといった強大な国家や物語の象徴だけが英雄譚として蔓延り、国家の正当な起源を担保する単一の神話となっていく過程で、無数の無名の口承の物語が消え去り、忘れ去られてしまった。

 この本の著者が何度も繰り返すとおり、本書にあるようなゾミアの生き方は1950年以降の現代のについては当てはめることはできない。北極と南極を除く全大陸の国家の猖獗、各種のテクノロジーの向上によって実質的な距離が消失しようとしている現代では、世界中のどこであっても国家の網の目を完全に逃れての営みは不可能に近いだろう。強大で苛烈な資本と国家に囲い込まれ、人々はそれらを前提とした思考から自由になる事ができず、バケツの中の無数の小さなカニのように上の者を引きずり落すか、下の者を踏みつけて少しでも上にあがることしか考えてはいない。そして壁はますます高く、分厚く、緻密になっていく。

 著者のジェームズ・C・スコットは今年(2024年)7月に87歳で大往生した。彼が遺した「小さき者たちのレジスタンス研究」を引き継ぐためにこのTシャツは開発された。このカオスな現状の中で、人々と手を取り合い共に生きるために、忘れ去れたこのアナーキーな倫理を、強く強く胸に刻み付けなければならないだろう。


by ∞+∞=∞ aka ziprockers



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