ネオリベ日本格差残酷物語。

2chスレ「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」が書籍に
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=527451&media_id=32

 書鬼より頂いた「日本残酷物語」の1巻「貧しき人々の群れ」をここ3日で読了。この本は、中世から近代、戦後すぐの時代まで続いていた「日常的な飢え、虐げられる女や老人、掠奪や物乞いの生涯、山や海の窮民」達の話であり、「ここに集められた残酷な物語は、かって日本のありふれた光景の記録」であり、「ついこの間まで、長く、貧しさの底で生き継いできた人々の様々な肖像」を集めたものだ。宮本常一や山本周五郎がかき集めたこれらの物語が「残酷」という名でセンセーショナルに響いたのは、昭和34年というこの本の出版された年が戦争の傷跡をなんとか覆い隠し、高度経済成長の端緒にあったからだろう。つまり、そこそこ豊かで単調な生活が戻ってきて、まだ酷かったあの頃を「残酷」として思い出すことがようやくできるようになったのだ。後書きで大月隆寛が指摘しているが、新興ジャーナリズムである週刊誌や実話誌が「厳しかった残酷」の残響を日本中から拾い上げ、「こんな酷い、許されないことがあったのだ!」と騒ぎ立てるが、この記事を読んでいる読者の多くはそんな脅威からはもう安全で、関係の無くなったこれらの残酷絵図を「見世物」のように見つつ、階級闘争史観的な左翼イデオロギーの正義感にもかっちりハマって安心できたのではないだろうか?

 そんな「残酷」という言葉をタイトルとして使ったこの本、つまり、「包み紙が古びた、すでに笑うしかないクサい本」を、当時の意匠=桎梏をほどきつつ今読むことこそが「テキスト本来の可能性」を引き出すと、大月氏はのたまうのだが、僕としてはそれも結局は読む人がどれだけ貧乏な実存を抱えているか?によってその読み方は変わってしまうのだろうなと思う。まだ氏が後書きを書いた95年はバブルも崩壊したが、豊かな時代だったのだ。だから、「残酷」や「左翼臭い」ことを笑い飛ばすことができた。(なんせ援助交際女子高生全盛期だもんねえ)そんな余裕というか、豊かさがあったのだ。でも、結局、経済的な余裕が無くなれば、残酷さをヒリヒリと肌で感じ、足の裏を焼かれるような立場になってしまえば、人々は左翼だろうが右翼だろうが、宗教だろうが、スピリチャルだろうが、藁をも掴むようにすがるだろう。それを上から見てバカにできるのは、経済的な余裕があるからに他ならない。

 病気になると意識は患部の痛みや苦痛でいっぱいになってしまい、外部や環境を冷静に観察することなんてできやしない。残酷さを笑い飛ばす豊かさが消えたとき、僕らはこの本の序章の言葉を思い出すだろう。「貧しさの中にいると、貧しさがわからなくなってくる」という言葉を。貧しさを認知させるのは豊かさだけだ。その豊かさを失えば、貧しさは貧しさでは無くなり、残酷も残酷ではなくなる。それは当たり前で普通なのだ。この本には柳田国男の「山の人生」から、あの、有名な説話が引かれている。生活がどん底の貧しい樵が娘達から頼まれて、彼女達自身が磨いた斧で姉妹の首を切り落とす話だ。よく考えたら似たような話がいくつもニュースでやってるじゃないか。やれやれ。この国の最貧困層は大正時代や昭和初期並みの水準に落ち込んでいるのだろうか?それとも、そおまでは行ってないが、豊かさから蹴落とされる落差の衝撃が大きく、以前なら耐えられた貧しさも耐えられないのだろうか?




 昨日もNHKで蟹工船やらフリーターズフリーといった格差本ブームを取りあえげていたんだが、こういった新しい残酷物語はどこまで流行するんだろう?そういえばちょっと前に足立区ブームもあったっけ。足立区の主婦はよく売春していてテレクラがにぎわってるとか。90年代末からいろんな本屋で「サブカル本」というコーナーが作られ、中野タコシェやヴィレッジバンガードなんかはそんな本しか置かない本屋だったが、最近は「格差本コーナー」がどこの本屋でも増えているようだ。






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