まったく見知らぬ人々。もしくは、RLL事始。

 駅の中や電車の中や路上やコンビニの片隅やファミレスの乾いた空気の中で、いつも、よく、そこにいる人々を見ている。無関係でどうでもよくて、ただ、顔や服装や会話の切れ端くらいからしか何も見えてこない人々。そして彼や彼女達から見てみれば、僕もまたそういったどうでもいい一人にすぎないという・・・・そんな人々を、ただじーっとよく見ている。

 もしこれがミクシみたいだったらなあ、とか思う。彼らの顔にアイコンがあってプロフが読めて、でもって入っているコミュや日記の内容なんかでどんな人なのかってすぐわかるみたいだと・・・・面白いんだろうなって。ま、個人情報垂れ流しでもあるんだけれど・・・・

 だけど、人々は常に個人情報を見せびらかしているし、垂れ流している。都市空間といった場所はそういった場所なのだ。さまざまな場所のさまざまな時間にその場所特定の人々が集い、ミックスされ、その度合いがゆっくりと移って行く・・・それは風営法に違反するクラブや、警察に無届のレイブといった一時的自立ゾーンだけではなく、毎朝の列車に並ぶ人の列やマクドナルドのレジやさまざまなイベント、偶然の路上、事故や奇跡といった複数の出来事の中でかき混ぜられ、種類別に沈殿していくカオスと秩序の社会的な生成と崩壊の明滅だと思う。そしてそういった人々の交わりの中で・・・・・複数の文化や規範、作法のコードが抽象化され、研ぎ澄まされていく。

 ファッションだけを見ていてもだいたいジャンルが見えるようになると、会話や存在、嗜好性、性格が、彼や彼女の所属するジャンルのコードによってある程度決められていることがわかってくる。もちろん個人はそれぞれの複数のジャンルを横断することはできるが、それほど多くのジャンルを横断できる人は数少ない。それでも人は自分が思っているよりずっと多くのコードによって自分を組み合わせて生み出している。ときに人はニュースキンを売りつつリストカッターであったり、コンビニの店員をするレイバーだったりする。性別や年齢、道徳や仕事のコードと趣味、嗜好性のコードというように、いくつものコードがファッションや振る舞いとともに生み出され、人々に付け加えられ、人々はそれぞれのロールに自分を分割していく。

 重要なのはまったく見たことないような振る舞い、服装、格好をした人にめったに会わないということだと思う。それに、たいていの人々はそれぞれが個性を持ち、他人とは見分けがつくのだけれど、ある程度のジャンルに収めたり、区分することが可能だ。これはいったいどういうことだろう?なぜ、ジャンルに区分することが絶対不可能な人がいなくて、ある程度は有限なジャンルに分類できてしまうのだろう。それは年齢や性別、職業、趣味、嗜好性、階級によってファッションが選択されていて、それらの選択がマスプロダクツとしての全体的なファッションという生産、流通、分配とそれを消費する文化のコードによって厳密に規定されているからだ。

 つまり僕達は服を買おうと思うと、それなりにジャンルとして成り立ったシステムからそのルールにしたがって購入し、身に付け、それに合った文化や趣味、趣向といった同質的な団体の中でそれを活用し、振舞うというわけだ。(ヒップホップなスタイルと言説やレゲエのスタイルと言説が違うように。そしてそれらが時に混ざり合い、まったく違ったスタイルを生み出すように。)オタクのようにファッションに興味も意味も見出さない人々さえ、そういった趣向性、つまり、たいして服に興味がない人が買う服ということでシマムラやユニクロ、巨大なモールといった都市や郊外の近場で買える服ということで限定され、おたくらしい服装としてジャンル化されてしまうということだ。

 人はある程度常に形式やファッション、作法を共有するグループに所属していないと他者とコミュニケーションが取れないし、自分を他者から差異化できないのだ。おばさんはおばさんらしい格好をしていないとおばさんではありえないんだけれど、彼女はほかのおばさんと自分を差異化するためにいくつものおばさんらしさのコードの中から自分の気に入ったコードを選択し、組み合わせ、オリジナルなおばさんになろうとする。。。。それがセレブなおばさんなのか民宿のおばさんなのか漁師のおばさんなのかは二次的な発生でしかない。

 つまり、人は他者との共通なブロックのある程度一定のルールに馴染んだファッション、振る舞い、作法によって自己を形成して社会的なコミュニケーションを行っていて、その組み合わせやコードがめちゃくちゃだったり、組み合わせが悪いとコミュニケーションがうまくいかず、次第に同質的集団から排除されていくことになる。

 さて、と、そいでもって現在、この僕らが知らないうちに僕達を生み出し、他人とコミュニケートし、かつ、他人とは違った僕らをプロデュースするためのさまざまなコードというブロックは資本主義というシステムによって生産され、配分されている。その配分はどれだけこの資本主義というシステムでその当人がより大量の商品とサービスを生み出し、流通させたか?という度合いに比例して通貨に交換され、その通貨によって人は他人の労働生産物であるサービスや物を買い、私有し、使用することができるようになるのだ。

 たとえば、僕は介護というサービスと労働によってお金をもらって、それで自分を拡大再生産するための食料や服、パソコンや音楽機材、媒体なんかを購入し、それを使用し、消費することで僕足りうることを可能にしているわけだ。つまりこの社会では社会的な地位やポストの大部分は、職業という、社会に対して何をどれくらい生産し、消費しているのか?ということによって、大部分の個人の自我同一性が認められ、むその競争によってある程度成り立っているといっていいと思う。マルクスが書いたように、どんなつつましく幸福な暮らしをしていても、自分の家の横に収入が何十倍もある人が豪邸を立ててレベルの高い生活をはじめれば、つつましく幸福な生活はみすぼらしくなってしまうからだ。
 
 こういった競争とジャンルの細分化、蛸壺化が激しく進みつつも、ある程度のみせびらかしのコードは相変わらず共通している。ブランドを着るのではなく、ブランドに着られることが常識となってしまい、もはやブランドのカットアップ、リミックス、コラボレーション的組み合わせとそれにまつわる薀蓄の物語の細分化が徹底して行われ、希少性がメディアによって捏造され、オークションと芸能人によってその神話が証明される。ブランドは常に新しいものを、さらに内在的に差異化を生み出すために、シーズンごとの新しいラインを定期的に発表し、古いモデルを過去の異物として瞬時に葬り去る。


 人々は自由意志によってこれらのブランドやそのブランドに合ったコミュニティや振る舞いを選択し、自我同一性を育て上げていくのだが、この運動が商品と社会的なコミュニティとの全体的な運動との関係によって規定され、全体の表現の一部へと個人の選択能力が矮小化し、転化しているというなら・・・・・商品とその商品を可能にする社会的バックグラウンドこそがそれを組み合わせる自我、組み合わせによって表現される自我の先験的な存在の源泉であり、なおかつ、構造的に閉じたシステムであり、個人とはその全体的システムの集団的表現の、間主体的な移り行く表現の複数の分岐通過点の集合でなくて、いったい何だというのだろうか?

 多くの人たちが「他人とは違っていい物を持っている私」を表現するためにエルメスやヴィトンのバッグを買い続けることは皮肉にも、それを所持する人が増えれば増えるほど、そのバッグが持つ差異化表示機能は減衰する。差異化の増殖の果ての同質化のパラドックスは流行とその衰退の基礎構造である。ブランドはシーズンラインによってこの流行を自発的に新陳代謝しながら、もっとロングスパンの規模においてその生産、流通、消費としてのシェア、テリトリーの規模を拡大したり喪失したりする。

 商品を買うとはそのブランドに投票することであり、そのテリトリーに自我を同一化することだ。それは所属集団を決定することであり、その集団のコミュニケーションに従うことを他者に向かって表示することでもある。ブランドとは精神と社会的諸集団のテリトリーを無意識に決定する機能を持っていて、その再生産と消費過程にある反転した構造的全体性の覆い、資本制経済に内在する商品の自由によってしか表現されえないコードへの自閉によって、われわれのコミュニケーションやそれを通じて表現されるキャラクターが、帰属する諸集団特有のコードによって限定される。エルメスを選ぶ人々の集団が再生産されるコードの全体性によって個々のエルメスを選ぶ人々はそのイメージに合ったコミュニケーションや振る舞いを自ら進んで演じるように・・・・われわれは商品の生み出す機能性とそのまとまりをもった連続の全体性(消費の物語)のイメージによって自己を生み出し、かつこの自己によって限定される。

 これこそが商品とブランドの持つ無意識的な拘束力と全体主義的なイメージの帝国主義なのだ。人は他人と違う自分を見出し、なおかつ他人とコミュニケートするためのツーツとして生み出した商品とその相関的な関係性の排他択一的構造によって自我を生産することなく生きていけないのが高度資本主義経済化の現状であり、われわれの苦痛と限界はその点にかかわっている。

 ミクシで出会ったハーポ部長、インテリパンク、そして僕とで作っている、RLLというTシャツブランドのコンセプトは、この商品の選択による自我の表現とコミュニケーションの再生産の全体的被限定性という資本制経済の限界を内在的に突破することでもある。

 RLLのプロダクツはそのプロダクツの持つ機能性とコードに自覚的であることによってファッションとそのファッションを嗜好性とする集団のコードを可視化する。いくつかの象徴的なデザイン(その多くがほかのコードやイメージからズレたりはみ出したり、付け加えられたり、混ぜられたものなのだが)さらにそれらの組み合わせを視覚化することにより、われわれは社会学的な実験アプローチを商品に組み合わせるのだ。われわれの商品は複数のコードを意図的にジャックし、突き破り、横断する。それはリアルな世界で展開するミクシのノイズ生成的コミュのシンボルであり、都市と路上のハイパーリンクであり、ネットとリアルを跨ぎ続けるリゾームなのだ。われわれはミクシのコミュ、アイコン、リンク相関性、集団と個のフィードバッグの反復で形成される意識の特性を、インターネットの外部に向かって展開することによって都市と路上の空間を政治的な空間へと変革する。RLLのプロダクツは新しいコミュニケーションツールであり、それは平坦な日常を生き残るためにわれわれが身に付ける、概念の諸集団の機能性と交通関係の、ポリティクスとストラテジーを前提とするアーマー(戦闘服)なのだ。



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