高円寺一揆の想い

また適当なこと書くよ。

六八年五月
 六八年五月は、容認されたあるいは期待された社会的諸形態を根底から揺るがせる祝祭のように、不意に訪れた幸福な出会いの中で、爆発的なコミュニケーションが、言いかえれば各人に階級や年齢、性や文化の相違をこえて、初対面の人と彼らがまさしく見なれた-未知の人であるがゆえにすでに仲のいい友人のようにして付き合うことができるような、そんな開域が、企ても謀議もなしに発現しうる(発現の通常の諸形態をはるかにこえて発現する)のだということをはっきりと示して見せた。

 「企てなしに」ということ。その実、無秩序な秩序や曖昧な専門化を装うあまたの「委員会」という形を通して実現されたものではあったが、「企てなしに」というこの点に、存続すべくも定着すべくも運命づけられてはいない捉えようのない比類ないある社会形態の、覚つかなくもあるが幸運に恵まれた特徴があったのである。「伝統的革命」とは逆に、権力を奪取してそれをもうひとつの権力に置き換えることや、バスティーユなり冬宮、エリゼ宮あるいは国会なりを占拠するといったさして重要でもない目標があったわけでもなく、また古い世界を転覆することがねらいだったのでもなく、各人を昂揚させ決起させることばの自由によって、友愛の中ですべての者に平等の権利を取り戻させ、あらゆる功利的関心の埒外で共に在ることの可能性をおのずから表出させることこそが重要だったのである。誰もが語るべきことを、時に書く(壁の上に)べきことをもっていた。では何を? それはたいして重要ではない。語るということが、語られるものにまさっていたのだ。詩が日常のものになっていた。抑制なしに現れるという意味での「自発的」なコミュニケーションは、闘争や討論、意見の対立があるにもかかわらず、透明で内在的な、コミュニケーションそれ自身とのコミュニケーションなのであり、そこでは計算をこととする知性よりも、ほとんど純粋といっていい(ともかく軽蔑も、高等さも低劣さもない)沸き立つ情熱が表明されていたのである——だからこそ権威は覆され、あるいはほとんど無視され、いかなるイデオロギーもそれを取り込んだり自分のものだと主張したりすることのできない、未だ嘗て生きられたことのなかった共産主義の一形態がここに出現したのだと、人びとは感じとることができたのだ。しかめっつらしい改革の試みなど存在せず、あるのはただ(それがために極めて異様な)無辜の現前だけだった。権力者たちの目にはそれが映らず、また彼らの分析の網にもかからなかったため、この自体はシアンリ〔大混乱〕、というような社会学的にみれば典型的な様ざまな表現で中傷されるほかなかった。だがそのような対応は彼ら自身の狼狽、すなわちもはや何の指令も出せずおのれ自身をも統御できなくなって、おのれの説明し難い破産を見るともなく眺めている司令部の狼狽を、グロテスクに上塗りするものにほかならなかった。

 無辜の現前、おのれの限界を蔑する「共同体の現前」(ルネ・シャール)、何ごとも排除しまいという姿勢、あるがままの存在意識、そして直接-普遍なものによって政治的である、この無辜の現前は、不可能なものを唯一の挑戦として掲げていたが、明確な政治的意志をもたず、公的諸制度が立ち上がるときにはその意のままに翻弄され、それに対する反抗はみずから禁じていた。阻止することも闘うこともその気になれば容易だったにちがいない敵対する示威行動を展開されるにまかせたのは、ほかならぬこの反対行動〔反動〕の不在である(ニーチェをその鼓吹者とみなすこともできただろう)。一切合切が受け容れられていた。敵を識別することもできず、敵というものの個別具体的なひとつの形態をも数えあげることもできないということ、それは運動を活気づけてもいたが、同時にそれを大詰めに向かって駆り立ててもいた。しかし大詰めというものの、出来事がいったん起こってしまったそのときから、決着をつける必要のあるものなど何もなかったのだ。それに出来事とはいうが、はたしてそれは起こっていたのだろうか。

『明かしえぬ共同体』モーリス・ブランショ




先日まで杉並区議会選挙活動に乗じて行なわれた『高円寺一揆』の、全く的外れな多くの批判はぜんぶ、上記ブランショの記す「共同体としての五月革命」で片付けることとする。「政治」音痴なのを自覚出来ないのは、踊れないでDJが下手だといってる様なもんだよ、だせぇ!

松本哉の言葉の多くは、すぐに政治哲学に翻訳して了解できるものばかりだ。お為ごかしはない、その意味で慎重かつ根源〈ラジカル〉的だある。「俺の自転車を返せ」とは、自由と個人所有への政治制限の根底批判である。どんな権限があっておめぇら、んなことできんだよ、不平等そのままじゃねぇか。「家賃をタダにしろ」だってそうだ、土地所有の根源に対する疑念は、家賃という商品の根底に領土を暴力で保有する国家マシーン批判が当然の前景がある(土地の区分の厳格化はそのまま帝国主義とパラレルな運動だ)。それらは突飛で大上段だから笑えるが、根源〈ラジカル〉には、人間の群(社会)のあり方が正しく面白く心地よくあって欲しいという、情動がある。共同体の正義を問うのが政治である。

フランスの哲学者ジャック・ランシエールのいうところの「政治」だ。普通に思われている「政治」は秩序の機構マシーン(警察や官僚や立法府やなんやかんやの力関係)統治で、それは「政治的なるもの」でしかない。しかし「政治的なるもの」を利用した強者富者による占有と、不可視であったほうがよい貧者(分け前をハブられたあぶれもの者)が生産される。そして市場経済の背後に暴力を伴った物の偏りがある(「ボッタクリ!」って資本主義の核心だよな)。そこから立ち現れる貧乏人(や諸々)が発生し、その主体化起こる。その正義を装う力関係の虚偽を正そうという動きこそが「政治」なのだ(ネグリなら「構成権力」かな)。群の分け前と秩序を巡って運動は続く。

「分け前なき者たちの分け前、つまり貧しい者という当事者ないし集団が存在するときに、政治が存在するのである」『不和あるいは了解なき了解—政治の哲学は可能か』ジャック・ランシエール

手前を非政治的主体(自称普通の市民って何だ?)として他者を政治的に非難することは出来ない。その意味で自分は、何に希望を、どんな人間の群(社会)に見いだすのか。選挙で当選してよくすることと、選挙に乗じてよくすることと、優劣の問題じゃないスタイルの問題だ。「政治的なるもの」そのものの選挙制度を脱構築し「政治」を注ぎ込む行為、「政治」とはその自らの存在を可視化する「騒ぎまくり、有象無象が居ることを知らしめて、ビビらせる祭」ことだ。そして「自治」が掲げられるが、そのままバタイユ/ナンシー/ブランショ/アガンベン/リンギスの「共同体」論へと接続する。「蕩尽」の「祭」を通して「共同体」が作られ「政(まつりごと)」として「貧者」の出現する「政治」が行なわれる。「祭」とは宴会でありパーティであり交歓である。それはアガンベンが書く「任意さ(何であっても構わないこと)」だけに基づく共同性を想起させる、有象無象の存在と交歓からなる祭の「共同体」が見える。「祭」をオーガナイズし、それにノルかソルか、それとも別に主催するのか、どう他人と楽しむのか。かんたんだろ?

自己の根源の偶然性から発する「何も共有していないことにおける共同体」の理論の系譜(ブランショやリンギス等々)は、その属性や所属する社会を脱構築した後に残る。安っぽいあれら本質主義や国籍や血統や性別や諸々から大きくはみ出た「友愛」からなる世界は、もしかしたらわりと簡単なのかもしれない。高円寺駅前には連日パンクス呑んだくれギャルばあちゃんガキおっさん外人車椅子当たり屋が混交していた。社会は宴会次第なのかもしれない。


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  • By intellipunk / Apr 23, 2007 8:53 pm

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