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Jean Cocteau 『阿片』

Cocteau1

Cocteau2
LINER NOTES

これ等のデッサンとこれ等のノオトは、千九百二十八年十二月十六日から千九百二十九年四月に至る間、サン・クルウ療養院に入院中のものだ。

療養所へは、阿片中毒患者は稀にしか來ない。この事實は阿片中毒患者が阿片をよすことが稀だからだ。だから、ここにゐる看護人達も、僞せものの喫煙家、お上品な喫煙家だけしか知つてゐない。つまり、阿片と酒精と、麻藥と、道具立とを混ぜて用いる連中か、(阿片と酒精とは不倶戴天の仇敵だ)さもなければ、煙管から注射器に、モルヒネから女色に移る連中が多い。あらゆる麻藥の中で、阿片が一番浸み込み易い。肺が瞬間的にその煙を吸收する。一服の効果はたちどころに現はれる。僕は眞の阿片喫煙家の場合に就いて云つてゐるのだ。物好きで試みる連中は、何も感じない。彼等はぼんやり夢幻を待つてゐるのだが、かへつて船暈を感じたりする。何故かといふに、阿片の効能は契約の結果だから。萬一阿片が僕等に嬉しくなつたが最後、僕等はもう逃げることは出來ない。

一つの革命の純粹さは、十五日以上は保たれない。
だから魂の中では革命家である詩人が、精神的に轉向することを自制するのだ。
十五日每に僕は出しものを變える。僕にとつて阿片は一つの革命だ。阿片中毒も一つの革命だ。解毒治療も一つの革命だ。僕は自分の作品のことを云つてゐるのではない。一つの作品は他の作品を斷頭臺にのぼす。僕の唯一の方法は、ナポレオンにばらないやうに身を勞はることだ。

阿片、それは宿命の女だ。寺院の偶像だ。忍びの間だ。僕には諸君の誤解を解く力がない。そして、科學にも阿片の治療的の本體と、破壞的の本體とを區別することが出來ない以上、僕は帽子脫いで引退るより仕方がない。アポロのやうに、僕が、詩人と醫者とを兼ねてゐないことを、こんなに殘念に思つたことはまたとない。

阿片を悲劇的に考へてはいけない。
一九〇九年頃には、藝術家は多く阿片を喫んだものだが、ただ人に言わずに喫んでゐたのだ。彼等は今ではもう喫まない。世間でこそ知らずにゐるが若夫婦で阿片を喫んでゐるものはうんとある。植民地で生活してゐる人々は、熱病の豫防の爲めに喫んでゐるが、事情に餘儀なくされれば、何時でも止めてしまふ。すると彼等は一寸した流感ほどの苦しさを感ずるだけだ。阿片がこれ等の味方を大目に見てやるのは、彼等が阿片を悲劇的にとらないからだ。
魂の指揮者である神經中樞を犯す時、阿片ははじめて悲劇的になる。さもない時には阿片は解毒劑であり、歡樂であり、極端な午睡である。

普通人。――のらりくらりしてゐる阿片喫煙者よ。何故そんな生活をしてゐるのか。一層窓から身を投げて、死んだ方が增しではないか。
阿片喫煙者。――駄目、僕は浮くから。
普通人。――いきなり君の身體は地べたへ落ちるから大丈夫死ねるよ。
阿片喫煙者。――身體のあとから、ゆつくり僕は地べたへ行く筈だ。

阿片を廢して六週間後
一週間ほど前から、僕は顏色がよくなつて、脚に力が出て來た。
ところが、氣がついて見ると、一週間ほど前から、僕は阿片のことが書けなくなつてしまつてゐる。僕は阿片のことを書く必要を感じない。阿片の問題が遠のいて行く。わざと考へなければ書けなくなつて來た。
要するに、僕はインキを用いて毒素を排泄して來たのだ。また、一義的な毒素の排泄の、他に、半ば一義的な毒素の排泄が行はれたのだ。僕の書いたり描いたりしようとする意思に依つてこの排泄が形になつて現はれたのだ。デッサンもノオトも、正直になされたといふことだけが取柄だと思つてゐたもので、また自分にとつての氣晴らしで、また自分の神經に對する一種の修養だと思つてゐたものが、終りに近い中毒症狀の精確な圖示となる結果になつたのだ。萬年筆がそれを開拓して、それに奥行と輪郭とを興へなかつたとしたなら、單に僕の肉體の一種の衰弱以外には何も殘さずに消え失せてしまつたであらうと思はれる幽靈のやうな物質が汗と膽汁とについで身體から出て來たのだつた。


ジャン・コクトー『阿片』(堀口大學訳)より
ピンクのボディにコクトーによる阿片イラストを銀でプリント。



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